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第4話 妻になった私に、夫は謝らなかった

Auteur: 雫石しま
last update Date de publication: 2026-08-23 10:38:14

結婚式から三日。

 

私は、龍斗さんと暮らす新居へ移った。都心の高層マンション。最上階にある広い部屋は、私が今まで暮らしてきた家とは比べものにならないほど豪華だった。大きな窓。広いリビング。高価そうな家具。そして、窓の向こうには東京の街が一望できる。夜になれば無数の灯りが瞬き、昼は遠くのビル群が霞んで見える。

 

「……すごい」

 

思わず呟いた。ガラスに映る自分の姿が、少し小さく感じる。

 

「気に入った?」

 

隣にいた龍斗さんが聞いた。

 

「はい」

「ならいい」

 

龍斗さんはそれだけ言って、先に部屋へ入っていった。私は後ろからついていく。足音が、大理石の床に静かに響く。結婚式の翌日から、私はこの人の妻になった。まだ実感がない。けれど。ここが、これから私が暮らす場所なのだ。

 

「使用人は必要なときに呼べばいい」

「はい」

「掃除や洗濯も任せればいい」

「わかりました」

「ただし、食事は君に頼みたい」

「食事?」

「ああ」

 

私は少し驚いた。

 

「料理は君の好きなものを作ってくれればいい」

「……私が作ったもので良いのですか?」

「妻なんだから、それくらいはしてほしい」

 

その言葉に、私は少し引っかかった。胸の奥に、微かな違和感が残る。でも。

 

「わかりました」

 

そう答えた。これくらいならできる。料理は嫌いではない。むしろ、家族のために作るのは好きだった。

 

「それから」

 

龍斗さんが振り返る。

 

「俺の予定を細かく聞く必要はない」

「はい」

「ただし、君が外出するときは連絡してくれ」

「わかりました」

「夜遅くなる場合も」

「はい」

 

私は頷いた。すると龍斗さんは満足したように歩いていった。その背中を見ながら、私は思った。夫婦とは、こういうものなのだろうか。決まりごとを一つずつ作って。互いの生活を合わせていく。まだよくわからない。けれど。少なくとも、結婚式の日に見た女性たちのように、龍斗さんの女遊びに振り回されるつもりはなかった。私はこの結婚に、恋愛を求めていない。男子を産む。そして。自由になる。それだけだ。

 

◇

 

その日の夕方。私は初めて、龍斗さんのために夕食を作った。炊きたてのご飯。味噌汁。焼き魚。煮物。どれも特別な料理ではない。でも。私の実家では、よく食卓に並んでいた料理だった。湯気が立ち上り、醤油と出汁の香りがキッチンに広がる。時計を見る。午後八時。まだ帰ってこない。九時。私は一人で夕食を食べようか迷った。けれど。初日くらい、一緒に食べたい。そう思って待った。窓の外の夜景が、時間とともに濃くなっていく。午後十時。玄関の扉が開く。

 

「ただいま」

「おかえりなさい」

 

私はキッチンから顔を出した。龍斗さんが私を見る。

 

「まだ起きてたのか」

「はい。夕食を作ったので」

「そう」

 

龍斗さんは上着を脱いだ。シャツの襟元が少し乱れ、疲れがにじんでいる。

 

「食べる」

「温め直しますね」

「いい」

 

龍斗さんはそのまま席についた。私は料理を並べた。温かい湯気が、テーブルの上で揺れる。

 

「いただきます」

「どうぞ」

 

龍斗さんが箸を取る。焼き魚を一口。味噌汁を一口。私は向かい側に座って、反応を待った。

 

「……」

「どうですか?」

「普通」

「そうですか」

「味噌汁は少し薄い」

「すみません」

「次から濃くして」

「はい」

 

それだけだった。私は少しだけ苦笑した。この人は、褒めることを知らないらしい。けれど。全部食べてくれた。それだけでいいと思った。「ごちそうさま」龍斗さんが席を立った。私は少し驚いた。

 

「……ごちそうさまって言うんですね」

「何だそれ」

「いえ」

 

私は笑った。「何でもありません」龍斗さんは怪訝そうな顔をした。「変な奴だな」そう言って、寝室へ向かっていった。私は食器を片付けながら、少しだけ笑った。もしかすると。思っていたほど悪い人ではないのかもしれない。そう思った。このときは。

 

◇

 

結婚して一週間。私の生活は、ほとんど変わらなかった。朝六時に起きる。朝食を作る。龍斗さんを送り出す。家事をする。夕方になったら夕食を準備する。帰宅を待つ。毎日、その繰り返し。窓から差し込む朝の光が、リビングを淡く照らす。龍斗さんは相変わらず忙しい。けれど。少しずつ、私に話しかけるようになった。

 

「今日は何を食べたい?」

「何でもいい」

「何でもが一番困るんです」

「じゃあ、由紀江が作りたいもの」

「……わかりました」

 

そんな会話が増えた。以前は、「飯」それだけだった。今では私の名前を呼ぶ。

 

「由紀江」

「はい?」

「コーヒー」

「今、淹れますね」

 

それだけのやり取り。それでも。私は少しずつ、この家での生活に慣れていった。高い天井も、広い廊下も、夜の静けさも、徐々に日常になっていく。

 

◇

 

ある日。龍斗さんが帰宅したとき、手に大きな紙袋を持っていた。

 

「これ」

「何ですか?」

「開けてみろ」

 

私は紙袋を受け取った。中には、高級ブランドのバッグが入っていた。滑らかなレザーが、指に冷たく触れる。

 

「……私に?」

「ああ」

「どうして?」

「買いたかったから」

「でも、私は何も……」

「いいから使え」

 

私はバッグを見つめた。素直に嬉しかった。

 

「ありがとうございます」

「気に入った?」

「はい」

「そう」

 

龍斗さんは、満足そうだった。その顔を見て。私は少しだけ思った。この人なりに、妻を喜ばせようとしているのかもしれない。たとえ、その方法が少しずれていても。

 

◇

 

数日後。私は一人で買い物へ出かけた。龍斗さんには、夕方には戻ると伝えていた。用事を済ませ、帰宅したとき。リビングには龍斗さんがいた。窓の外の夜景を背に、ソファに座っている。

 

「おかえり」

「ただいま帰りました」

「どこへ行っていた?」

「買い物です」

「誰と?」

「一人です」

 

龍斗さんがじっと私を見る。視線が、いつもより重い。

 

「本当に?」

「はい」

「さっき、君が男と一緒にいるのを見たという話を聞いた」

「男性?」

「誰だ」

 

私は少し考えた。そして。「あ……」思い当たる。

 

「元婚約者です」

 

その瞬間。龍斗さんの顔が変わった。血の気が、わずかに引く。

 

「……何?」

「偶然会ったんです」

「二人で?」

「はい。でも、本当に偶然です」

「何を話した?」

「結婚おめでとう、と言われました」

「それだけ?」

「はい」

 

龍斗さんは黙っている。私は首を傾げた。

 

「何か問題がありますか?」

「……俺に言わなかった」

「偶然会ったのに、どうやって報告するんですか?」

「連絡くらいできただろ」

「どうして?」

「俺の妻だからだ」

 

また、その言葉。

 

「妻なら、偶然会った人間のことまで報告しないといけないんですか?」

「元婚約者だろ」

「もう終わったことです」

「そういう問題じゃない」

「では、何の問題なんですか?」

 

龍斗さんが黙る。私には、本当にわからなかった。すると。

 

「もう会うな」

「……え?」

「元婚約者とは、もう会うな」

「でも......親戚ですし......」

「俺が嫌だ」

 

その言葉だけが、妙に強かった。私は龍斗さんを見つめた。どうして。この人は、そんなに怒っているのだろう。

 

「……わかりました」

 

これ以上揉めても仕方がない。私はそう答えた。すると龍斗さんの表情が、ほんの少し緩んだ。

 

「そうしてくれ」

 

私はその顔を見ながら思った。これは嫉妬なのだろうか。でも。この人が私を好きだとは思えない。結婚だって、家同士の都合だ。なら。なぜ、元婚約者のことをそんなに気にするのだろう。私にはわからなかった。

 

◇

 

その夜。私は夕食の支度をしていた。龍斗さんは、まだ少し機嫌が悪い。けれど。食事を始めると、いつも通りになった。箸が進む音だけが、静かな食卓に響く。

 

「この肉、美味いな」

「本当ですか?」

「ああ」

「よかった」

 

私は少し笑った。

 

「由紀江」

「はい?」

「今日は、家にいてくれてよかった」

「……?」

「いや」

 

龍斗さんはそれ以上言わなかった。私は首を傾げた。けれど。その言葉が、なぜか胸に残った。

 

◇

 

結婚して二週間。私は、龍斗さんとの生活に慣れ始めていた。家に帰れば、彼がいる。彼が帰ってくれば、私がいる。食事を作り。朝、送り出す。そんな毎日。不思議なことに。龍斗さんも、その生活を当然のように受け入れていた。私が外出すると、「何時に帰る?」と聞く。帰宅が少し遅くなると、「遅かったな」と言う。私が風邪気味だと、「今日は寝ていろ」と言う。優しい。そう思うこともあった。けれど。その優しさの中に、どこか息苦しさを感じることもあった。窓の外の夜景が、時折、檻のように感じられる。そんなある日。龍斗さんが帰宅した。手には、また大きな紙袋。

 

「これ」

「またですか?」

「ああ」

「もう十分いただきました」

「君は遠慮しすぎだ」

 

箱の中には、高価な宝石が入っていた。光を受けて、冷たく輝いている。

 

「こんなに高価なもの……」

「俺の妻が身につけるんだから、これくらいでいい」

 

私は宝石を見つめた。綺麗だった。でも。何となく、胸がざわついた。

 

「龍斗さん」

「何だ?」

「もし私が、何か嫌なことをしたら……」

「?」

「龍斗さんは、どうしますか?」

「どういう意味だ?」

「たとえば、喧嘩したときとか」

 

龍斗さんは少し考えた。

 

「そのときは、欲しいものを買ってやる」

「……え?」

「女は、それで機嫌が直るだろ」

 

私は言葉を失った。

 

「女……」

 

そこまで言って、口を閉じた。

 

「何だ?」

「……何でもありません」

 

龍斗さんは不思議そうに私を見る。私は笑った。けれど。心の中では、はっきりとわかっていた。この人は。人の心を、物で埋められると思っている。それが、これからの結婚生活で。私を一番苦しめることになるのだと。

 

◇

 

その夜。私はベッドの中で、静かに目を閉じた。隣では龍斗さんが眠っている。規則正しい呼吸だけが、静かな部屋に響く。私はそっとお腹へ手を当てた。まだ何もない。けれど。いつか。ここに小さな命が宿るかもしれない。男子を産めば。私は自由になれる。それまで。もう少しだけ。この人の妻を続けよう。そう思った。そして。眠りにつく直前。隣から、低い声が聞こえた。

 

「……由紀江」

「はい?」

「どこにも行くなよ」

 

私は目を開けた。龍斗さんは目を閉じたままだった。横顔が、月の光に淡く照らされている。

 

「……それはどういう意味ですか?」

 

返事はなかった。私はしばらく、その横顔を見つめた。このときの私はまだ知らなかった。龍斗さんが口にしたその言葉が。やがて、「どこにも行くな」から「どこにも行かせない」へ変わってしまうことを。

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